今度のアンビリバボーでは「今明かされる戦争の記録」が放送される。
ちょうど戦争が終わって70年。
テレビでは数々の戦争に関する番組が放送されている。
今回番組で取り上げられるのは「鉛筆部隊」。
今までに聞いたことがない言葉だ。
一体どういう話なのか、調べてみることにした。
鉛筆部隊とは
時代は太平洋戦争末期。
昭和19年8月12日夜、世田谷区立代沢国民学校の児童455人が、先生に引率されて、小田急線下北沢に向かった。行く先は松本市郊外の浅間温泉。
いわゆる集団疎開である。
この浅間温泉は、陸軍松本飛行場と結び付いていたという。
多くの軍人がこの浅間温泉付近に滞在していた。
疎開していた児童たちと彼らが仲良くなるのは自然の経緯である。
そこから学童児童と特攻隊員たちと交流が始まった。
当時、学童は数軒の旅館に分散して滞在していたが、その内の一軒に「千代の湯」がある。
その千代の湯を担当していたのが、のちの日本教育・児童文化評論家になる柳内達雄先生。
国語担当していた柳内達雄氏は作文に力を入れていた。
疎開先では、書くことでお国に奉仕するよう指導した。
子供たちは一心に日記を書き、家族に手紙を書き、兵隊さんに慰問文を書いた。
そして柳内氏は彼らのことを「鉛筆部隊」と呼んでいたのである。
そしてこの鉛筆部隊の宿に一緒に泊まることになったのが満州から来た特攻兵たち。
18歳から21歳くらいの若者である。
年もそれほど離れておらず、自然に兄弟のように仲良くなっていく。
上司から、
「情が移ると良くないから、あまり深く付き合うな」
と忠告を受けたほどだった。
ここまで聞いても胸が熱くなる。
この先、僕たちは悲劇を知ってしまっているからだ。
特攻を命じられてやってきた特攻兵と、
いろんな不安を抱えながらも一生懸命生きようとしている鉛筆部隊。
その2つが何故かこの場所で出会ってしまった。
帰ってきたらお嫁さんになってね、と言われた特攻兵。
自分の分まで生きてほしいと託された学童。
色々なドラマが有ったと思う。
その後、学童児童たちは、浅間温泉も危険になり、昭和20年4月、広丘村の寺に再疎開。
特攻隊の若者は、全員戦死したという。
鉛筆部隊まとめ
この話はずっと長いあいだ、地元以外で知られることはなかった。
それをまとめあげたのが、きむらけん氏。
三年半にわたる関係者への綿密な取材の結果、特攻隊の兵隊たちとの出会い交流の物語として書き上げている。
番組では当時の映像を交え、史実が再現されると思う。
戦後70周年の節目として見ておきたいと思う。