今度の奇跡体験!アンビリバボーに取り上げられるのは田尻宗昭氏。
海上保安庁の役人で、四日市の水質汚染の原因企業であった石原産業を摘発し「公害Gメン」と呼ばれた人物である。
高度経済成長期には日本のあちこちで公害訴訟があった。
苦しむ人たちを助けるべく大きな企業を相手に戦った人たちがいた。
田尻氏もそういった人たちの一人である。
いったいどのような人物なのか調べてみることにした。
田尻宗昭プロフィール
生年月日:昭和3年2月21日
出身:福岡県
学歴:清水高等商船学校卒
職業:海上保安庁
経歴:
佐世保勤務後、1968年7月に三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任。
四日市港の工場廃液垂れ流し企業を摘発。
昭和48年美濃部亮吉東京都知事の要請で都公害局規制部長となり,公害防止行政を推進。
神奈川労災職業病センター所長。
東京大非常勤講師や神奈川大短大の教授も務める。
1990年7月4日死去、62歳だった。
田尻宗昭氏が戦った四日市公害事件とは
高度経済成長期、四日市では1960年ごろから次々と企業を誘致し、どんどんコンビナートが作られていった。
開発が進んでいく一方、公害に対する意識は企業や県側には低かったという。
一方で四日市市にある漁業組合は頭を悩ませていた。
1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚がくさくなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場に伊勢湾の魚はくさいので、取引を停止すると通達されてしまったからだ。
当然、漁業者たちは伊勢湾汚水対策漁民同盟を結成し、30億円の損害補てんを求めたが、得られたのはわずか1億円の漁業振興費に過ぎなかった。
四日市港を中心とする漁場では売り物になる魚が取れなくなってしまった漁民たちは、他の漁場に密猟に行くしかなくなっていた。
そうした漁民たちを取り締まることになったのが、1968年7月に四日市に赴任した田尻宗昭氏だった。
だが、密漁で取り締まった漁民から衝撃な言葉を聞かされる。
水産資源を守る法律を破って魚を殺したやつは向こうやないか。昔からまじめに平和にやっとるわしらから魚を取り上げるやつは罪にならんのか。それを取り締まらんで、追い詰められたわしらだけを捕らえるのはいったいどういうことなんや。あんたらは企業の手先になって取り締まりをやっておるのか。
引用:『四日市・死の海と闘う』
この言葉が田尻氏を突き動かした。
私は深くショックを受けた。おれたちがやっていることはなんなんだ、おれたちはなんか大きなものを見落としているんじゃないか。水産資源保護帽という法律はいったい、なにを守っているんだ。
引用:『四日市・死の海と闘う』
田尻氏は公害を引き起こしていると思われる企業を摘発することを決めた。
その相手は
「日本アエロジル」と「石原産業」
特に石原産業については
「四日市天皇」
と呼ばれるほど、地元では絶大な権力を握っていて、行政との癒着も凄まじいものがあったようだ。
創業者でもあり、社長でもある石原広一郎は戦前からの実業家で、国家主義者でもあり、 A 級戦犯として拘留されたこともある人物だ。
そういう巨大組織と田尻氏は戦っていくことになる。
田尻氏は漁民や釣り人に変装をしながら水質調査を行ったり、工場の調査を繰り返しながら、公害の原因を突き詰めていく。
そしてついに石原産業が大量の硫酸水たれ流しをしている事実をつかんだのだ。
そしてその背景には通産省と石原産業がグルとなり、無許可で工場を増設したりするなどの違法行為があったことが明らかになった。
そのことが国会で明らかとなり、全国で初めての公害刑事裁判が始まり、石原産業の敗訴が決定した。
事件後の田尻氏と石原産業は?
これほどの活躍をした田尻氏であったが、海上保安庁からは異端児とみなされ、事実上の左遷。
和歌山県の海上保安庁の課長に異動となった。
だが、その後昭和48年美濃部亮吉東京都知事の要請で都公害局規制部長となり,公害防止行政を推進。
また、大学などで教鞭をとることもあった。
そして1990年。
62歳という若さでこの世を去る。
石原産業はどうか。
石原産業はその後も公害事件を繰り返すこととなる。
2005年にはフェロシルトの大量不法投棄問題。
東証・大証一部上場の化学メーカー石原産業(大阪市)が01年〜05年、実質は産業廃棄物である「フェロシルト」や汚泥など計約72万トンを「土壌埋め戻し材」の名目でリサイクル商品として販売し、三重、愛知、岐阜、京都の4府県に埋めたとされる。うち京都府を除く3県3カ所の計約13万5千トン分が起訴された。4府県の埋設地からは、土壌環境基準を超える六価クロムやフッ素などの有害物質が検出された。
2008年にはホスゲンの無届大量製造、地下水から基準値の500倍のヒ素、データー改ざん。
四日市市の工場にて、化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律によって年間30t以上製造する場合は国への届出が義務付けられている毒性の高い物質「ホスゲン」の大量製造を無届けで行っていた。
地下水から環境基準500倍のヒ素が検出された。
廃棄物の放射線量が基準値を上回るにも関わらず、三重県には基準を下回るようデータ改ざんし虚偽報告。
運搬船から液化アンモニアをパイプで工場内のタンクに搬入する際に発生する、パイプの中に残る気化したアンモニアガスを40年以上にわたり伊勢湾に放出。これをうけ 三重県と四日市市は5月15日、同工場に立入検査を実施した。また、四日市市保健所も5月29日、同工場に立入調査を実施した。
まとめ
結局石原産業はその後も公害を出し続ける。
では田尻氏のやったことは結局意味がなかったのかというと決してそうではない。
彼の姿に影響を受けた人たちが公害に立ち向かうべく行動を起こしていった。
また没後、香典を元手に「田尻宗昭記念基金」が設けられ寄付金も募って、環境および労働安全衛生をはじめとした様々な分野で、社会的不正義をなくすために熱意ある取り組みをされている個人・団体(国籍不問)」に対して毎年「田尻賞」が贈られた。
番組では大企業に立ち向かったスーパー公務員の姿が報じられる。
楽しみにしたい。